歴史
昭和13年5月23日「保証責任周東医療利用組合聯合会」として設立許可を受け、経営母体となる病院を玖珂郡柳井町白潟1069番地の1に建設する事になり、翌14年5月16日木造本館2階建1棟、病棟2階建2棟の当時では近代化された施設が完成し、業務を開始いたしました。
当地を選択した理由は周東3郡(大島、玖珂、熊毛)の基幹病院としての役割を果たせる施設としての立地条件を考慮したことであり、その後に分院や診療所を開設、農村漁村民の医療、福祉の拡大整備を図って行いました。昭和26年3月に廃止するまでの10年間は付属施設として「周東病院付属産婆看護婦養成所」も開設しました。この後、「周東利用聯」は「山口県産業組合聯合会」へ合併し戦時下の昭和18年9月農業団体法の下、県農業会へ統合されました。23年8月15日山口県厚生連が設立され、同時に県農業会の資産を譲り受け現在の厚生連病院として再出発いたしました。
25年3月深部治療室(レントゲン室)設置、28年診療棟・病棟を大改築、総合病院としての必要施設をその後新築し、29年1月より「総合病院」の名称認可を得て「周東総合病院」となりました。昭和28年3月には柳井町ほか6か村共立伝染病隔離病舎組合の伝染病棟も併設されていました。昭和14年に建設した施設は土木建築であったため、旧式と老朽化が著しく20年間を経過した36年頃から近代化へ向け検討が始まりましたが、当時は整備促進期間中で実現には至りませんでした。
41年6月県連合会の共通役員制が発足、周東・長門・小郡の3病院を基幹病院として診療設備の抜本的近代化を図り建物を永久建築とした改築方針が打ち出され、同年11月理事会で新病院の建設方針と建築場所が決定され、周東総合病院建設委員会の設置を決め具体化に入りました。
建設場所は近代的な総合病院を建設するには1万坪(3万3000㎡)以上の広大な用地を必要とするため同場所では狭く、また全施設を一挙に改築する事は技術的にも不可能なため、同年11月第1回建設委員会を開催し建設候補地3ヶ所を視察し、柳井市と平生町の境界に近い国道沿いの現在地に建設することに決定しました。現在地(柳井市古開作1000番1)への新築移転では柳井市・熊毛郡両医師会との間で種々の問題もあったが、山口県、県医師会、山口赤十字病院長、柳井市長などの労により「周東総合病院医療保健協議会設置」の覚書を取り交わす事で円満解決しました。
境界に建設する事で柳井市民病院と平生国保病院を吸収合併する形で43年2月12日着工、翌44年5月1日に完工しました。また地域における基幹病院を目指して医局を充実する為、山口大学との折衝の結果、年次増員する事で見通しが立ち、また救急医療に備えて医師住宅も同一敷地内に次々と建設して行きました。
しかし経営状態は新築移転したものの増員した医師や職員の人件費、増大した減価償却費、金利などで経営は昭和48年度まで苦しい時期が続きましたが、翌49年度からは好転し黒字経営となりました。
当地を選択した理由は周東3郡(大島、玖珂、熊毛)の基幹病院としての役割を果たせる施設としての立地条件を考慮したことであり、その後に分院や診療所を開設、農村漁村民の医療、福祉の拡大整備を図って行いました。昭和26年3月に廃止するまでの10年間は付属施設として「周東病院付属産婆看護婦養成所」も開設しました。この後、「周東利用聯」は「山口県産業組合聯合会」へ合併し戦時下の昭和18年9月農業団体法の下、県農業会へ統合されました。23年8月15日山口県厚生連が設立され、同時に県農業会の資産を譲り受け現在の厚生連病院として再出発いたしました。
25年3月深部治療室(レントゲン室)設置、28年診療棟・病棟を大改築、総合病院としての必要施設をその後新築し、29年1月より「総合病院」の名称認可を得て「周東総合病院」となりました。昭和28年3月には柳井町ほか6か村共立伝染病隔離病舎組合の伝染病棟も併設されていました。昭和14年に建設した施設は土木建築であったため、旧式と老朽化が著しく20年間を経過した36年頃から近代化へ向け検討が始まりましたが、当時は整備促進期間中で実現には至りませんでした。
41年6月県連合会の共通役員制が発足、周東・長門・小郡の3病院を基幹病院として診療設備の抜本的近代化を図り建物を永久建築とした改築方針が打ち出され、同年11月理事会で新病院の建設方針と建築場所が決定され、周東総合病院建設委員会の設置を決め具体化に入りました。
建設場所は近代的な総合病院を建設するには1万坪(3万3000㎡)以上の広大な用地を必要とするため同場所では狭く、また全施設を一挙に改築する事は技術的にも不可能なため、同年11月第1回建設委員会を開催し建設候補地3ヶ所を視察し、柳井市と平生町の境界に近い国道沿いの現在地に建設することに決定しました。現在地(柳井市古開作1000番1)への新築移転では柳井市・熊毛郡両医師会との間で種々の問題もあったが、山口県、県医師会、山口赤十字病院長、柳井市長などの労により「周東総合病院医療保健協議会設置」の覚書を取り交わす事で円満解決しました。
境界に建設する事で柳井市民病院と平生国保病院を吸収合併する形で43年2月12日着工、翌44年5月1日に完工しました。また地域における基幹病院を目指して医局を充実する為、山口大学との折衝の結果、年次増員する事で見通しが立ち、また救急医療に備えて医師住宅も同一敷地内に次々と建設して行きました。
しかし経営状態は新築移転したものの増員した医師や職員の人件費、増大した減価償却費、金利などで経営は昭和48年度まで苦しい時期が続きましたが、翌49年度からは好転し黒字経営となりました。
敷地
昭和45年1月に現在地(柳井市古開作1000番1)を取得しました。しかし移転した当時から水不足という大きな問題を抱えており、53年夏には異常渇水の年で病院運営全般に大きな影響を及ぼし、ボーリング工事で3本の井戸を掘り苦境を乗り越えました。
平成3年12月看護師不足解消のため看護師宿舎を建替える事とし1036番地と1058番地を新たに取得し、旧看護師宿舎を解体し跡地を外来駐車場として利用、平成14年5月に1038番地他、15年12月に西側隣接地を駐車場拡張のため取得しました。現在の面積は75,398㎡。
平成3年12月看護師不足解消のため看護師宿舎を建替える事とし1036番地と1058番地を新たに取得し、旧看護師宿舎を解体し跡地を外来駐車場として利用、平成14年5月に1038番地他、15年12月に西側隣接地を駐車場拡張のため取得しました。現在の面積は75,398㎡。
施設・病床
新築移転した昭和44年12月25日増床が認可され、一般病床340床、結核病床(西病棟60床、伝染病床20床、合計420床となり、昭和55年11月30日結核病床60床を一般病床への変更許可を受け、昭和56年1月西病棟を改築し一般病床400床となりました。
その後先端医療施設として地域住民から要望され地域の公的病院、中核病院となった周東総合病院は入院患者数の増加に対応するため、50床の増床計画と駐車場の拡大整備計画を昭和59年11月理事会で承認を受け一般病床450床となりました。一方外来棟は狭くなった診療室を居住性の良いものへと住民の要望が強くなり、新外来棟を改築する事が平成3年7月理事会で承認され、またこの頃から看護師不足が深刻な問題となり対策として看護師宿舎を新築移転することを平成4年7月理事会で承認され併せて着工し平成5年12月完工しました。
一般病床数も看護師数の不足と外来診療科(歯科)の廃止などの理由で平成4年3月に西病棟の50床を閉鎖せざるを得ず、また平成15年5月人工透析の開設に伴い病室の改修によって6床、平成16年8月に人工透析室拡張により更に6床減少させました。その後病床種別届の時期及び増改築工事と相まって総病床数は平成17年1月の南館(病室)完成により368床、平成17年2月の東館(病室)完成により360床と変遷しています。その他伝染病床20床は平成11年5月理事会で隔離病舎組合へ返還することを了承し、同年8月解体を致しました。
その後先端医療施設として地域住民から要望され地域の公的病院、中核病院となった周東総合病院は入院患者数の増加に対応するため、50床の増床計画と駐車場の拡大整備計画を昭和59年11月理事会で承認を受け一般病床450床となりました。一方外来棟は狭くなった診療室を居住性の良いものへと住民の要望が強くなり、新外来棟を改築する事が平成3年7月理事会で承認され、またこの頃から看護師不足が深刻な問題となり対策として看護師宿舎を新築移転することを平成4年7月理事会で承認され併せて着工し平成5年12月完工しました。
一般病床数も看護師数の不足と外来診療科(歯科)の廃止などの理由で平成4年3月に西病棟の50床を閉鎖せざるを得ず、また平成15年5月人工透析の開設に伴い病室の改修によって6床、平成16年8月に人工透析室拡張により更に6床減少させました。その後病床種別届の時期及び増改築工事と相まって総病床数は平成17年1月の南館(病室)完成により368床、平成17年2月の東館(病室)完成により360床と変遷しています。その他伝染病床20床は平成11年5月理事会で隔離病舎組合へ返還することを了承し、同年8月解体を致しました。
令和6年8月に一般病床32床の削減を行い328床となった。
診療科目
昭和54年に耳鼻咽喉科、昭和60年には脳神経外科、放射線科、歯科を開設しました。歯科は平成4年に廃止しています。平成22年に循環器科を循環器内科に名称変更し、気管食道科を廃止。平成24年に消化器内科、血液内科を追加。平成26年12月には歯科口腔外科を開設。平成30年1月に乳腺外科の届け出を行い、現在21診療科。
看護体制
昭和53年にはⅡ類看護と特Ⅱ類看護であったが、54年7月に特Ⅱ類看護で全病床認可を受け平成元年2月には特Ⅲ類看護の承認を79床のみ受けました。平成5年9月に特Ⅲ類看護で全病床認可を受けその後看護体系も新看護体系となり、平成6年11月には2.5対1看護A、10対1看補の承認を受けました。平成11年6月から一般病棟入院基本料Ⅰ群の1を受けました。平成22年3月から念願でありました7対1看護を取得いたしました。
職員数
昭和23年から昭和43年までは移転前の病院で、職員数は医師をはじめ職員総数90名~121名でしたが、昭和44年の新築移転と同時に230名となりました。医局の充実のため新たな診療科の開設、また看護体系の変更を機に看護師の増員、高度医療機器の導入や医療技術部門の充実のため技師の増員などにより昭和55年には270名、平成元年には331名、平成9年には415名と徐々に増加し、平成30年で585名、令和4年4月現在598名となっています。
増改築工事
平成5年12月に新外来診療棟が稼動し始めると2階から上の病棟の老朽化、狭隘化、療養環境不整備が著しく目立つようになり、併せて手術室や中央滅菌室などの機能的不備が指摘され始め、病院利用者や職員から一日も早い病棟増改築工事着工が叫ばれるようになった。
しかし度重なる診療報酬の改定、薬価の引き下げ等により事業収入が伸び悩み、建設後の減価償却費や支払利息が病院運営に大きな影響を与え、大型投資になかなか踏み切れない状況が続きました。平成14年7月役員体制の下、「柳井医療圏における周東総合病院構想」が打ち出され、同年8月理事会で周東総合病院増改築工事が承認されました。
設計監理は、全農山口施設農住事務所および株式会社全国農協設計、施工は鹿島建設・末延建設共同企業体に決定し、平成15年9月に着工、平成17年2月に「南館(病棟・手術室等)」、平成18年2月に「東館(病棟・透析センター・リハビリテーションセンター・厨房等)」、平成19年2月に「西館(外来・放射線・検査・管理部門等)」がそれぞれ完成し、平成20年5月の「玄関棟(総合受付・救急外来・健診センター・多目的教室等)」の完成をもって、すべての工事が完成しました。
建物概要は以下のとおりです。
しかし度重なる診療報酬の改定、薬価の引き下げ等により事業収入が伸び悩み、建設後の減価償却費や支払利息が病院運営に大きな影響を与え、大型投資になかなか踏み切れない状況が続きました。平成14年7月役員体制の下、「柳井医療圏における周東総合病院構想」が打ち出され、同年8月理事会で周東総合病院増改築工事が承認されました。
設計監理は、全農山口施設農住事務所および株式会社全国農協設計、施工は鹿島建設・末延建設共同企業体に決定し、平成15年9月に着工、平成17年2月に「南館(病棟・手術室等)」、平成18年2月に「東館(病棟・透析センター・リハビリテーションセンター・厨房等)」、平成19年2月に「西館(外来・放射線・検査・管理部門等)」がそれぞれ完成し、平成20年5月の「玄関棟(総合受付・救急外来・健診センター・多目的教室等)」の完成をもって、すべての工事が完成しました。
建物概要は以下のとおりです。
敷地面積 | 75,398㎡ |
構造・規模 | 鉄筋コンクリート造 地上7階、地下1階 |
建築面積 | 7,297.33㎡ |
延床面積 | 32,032.80㎡ |
建物高さ | 軒高35.0m 最高の高さ40.0m |
駐車場台数 | 320台 |